ハイデガー「科学と省察」、読了。

ハイデガー「科学と省察」を読了。

これは論文であり、「技術への問い」という本の第2章となります。


今回は、簡単にまとめた「Facebook投稿記事」と、この本(章)を私が理解するためにまとめた「スマホのメモ」の、両方を投稿させて頂きます。

平凡社版「技術への問い」が手元にある人は、スマホメモの部分も参考に読んでみて下さい。

なお、メモは、読書しながらスマホに書き残したもので、かなりの長文です。


(Facebook投稿記事)


ハイデガー「技術への問い」という本の、「科学と省察」という章を読了しました。

前にこの本の「技術への問い」という章を読んだので、その続きになります。


この内容を分かりやすくまとめるのはかなり難しいので出来ませんが、それでも要点を言うなら以下の通りです。


科学とは、現実的なものの理論である。

しかし、科学は科学の本質を語ることは出来ない。

例えば、物理学は全て物理学的な言葉で述べられているが、しかし、物理学によって物理学の本質を見出すことは出来ない。

同様に、史学は歴史によって語られるが、史学の本質を歴史に見出すことは出来ない。

数学も、数学で数学の本質を見出すことは出来ない。

これら科学の本質は科学で説明できないものの、科学の本質は科学につきまとう不可避的なものである。

しかし、その不可避的なものが何なのかは、著者自身も見出せなかった。

(この論文は、そこで終了する。)


https://www.amazon.co.jp/技術への問い-平凡社ライブラリー-マルティン-ハイデッガー/dp/4582768008




(スマホのメモ)


科学と省察


科学とは、我々の生活の全組織形態に組み込まれているもの。


科学は、知識欲とは何か別のものが支配している。

科学の本質がどこにもとづいているのか?=科学は現実的なものの理論である。(近・現代の科学のみ。)

なのに、近年の現代科学の本質は、ヨーロッパ的なものであり、プラトン以来のギリシア哲学にもとづいている。


現実的なものとは何か?理論とは何か?

現実的なもの(das Wirkliche)は、働く(Wirken)ものの領域を満たしている。

働くとは、行う(Tun)ことを意味する。

Tunは、インド・ゲルマン語のdheに由来する。

ギリシア語のテシス(据えること、立てること、姿勢)も、これに由来する。

Tunは、人間の行いだけでなく、自然(ピュシス)の成長や働きも意味し、テシスも厳密にはそう意味する。


テシス(ヴィルケン)とは、それ自体から何か或るものを前へと置き、それをこちらへと立て、こちらへと、そして前へと、もたらすこと。

つまり、現前へともたらすことを云う。(現前しつつある現前するもの)

ex. ヴィルケンは、中世においては、家や道具、彫像などを作り出すこと。今は、縫う、刺繍する、織るという意味。


現実的なもの

=働いている・働きかけられたもの

=こちらへと前へともたらす・もたらされたもの

現実性

=こちらへと前へともたらされて前にあること、それ自体をこちらへと前へともたらすもののそれ自体において完成された現前


ヴィルケンとは、インド・ゲルマン語のuergに由来し、ドイツ語のWerk(働き)や、ギリシア語のエルゴン(仕事・作品)もそう。


現前するものの現前性=エネルゲイア、エンテレケイア=完成態において保持するもの


現前するものの、現前性のあり方=対象性


命題「科学は現実的なものの理論である」

理論(Theorie)は、ギリシア語のテオーレイン(注視する)に由来する。

テオーレインに属する名詞が、テオーリア(観照)

テオーレイン=テア+ホラオー

テア=光景、外観、それにおいて何かが示されるもの、それにおいて何かが提示される眺め

エイドス=外観、それにおいてその現前するものがまさにそのものであるところのものを示すもの

エイデナイ()=この外観を見てしまったもの

ホラオー=注視すること、吟味すること、それをよく見ること

テオーレイン=そこにおいて現前するものが現出する光景を注視すること、そのような視によって現前するもののもとに見ながらとどまること

テオーリア(観照)は、人間的現存在の完成形態。現前するもろもろの光景との純粋な関連。それらの光景はその映現によって人間を襲う。そしてその時、神々の臨在を輝かせる。

テオーリア=テア(女神)+オラオー(オーラ、配慮、栄誉と尊敬を贈ること)、真理を見守りつつ観照すること

テア=アレーテイア(不伏蔵性、真理)


早初のテオーリアの影は現代の「理論」の全体を覆っている。


テオーリアという言葉。(言葉語彙)

テオーレイン=コンテムプラーリー(観想する)=或るものを区域に分け、その周りを囲うこと。

テオーリア=コンテムプラーティオー(観想(ローマ人の翻訳。ローマ的な現存在の精神に由来する翻訳。))、切り離して分割する注視、区分けされた介入的な処置

アトメートン、ア-トモン=切断しえないもの、原子

コンテムプラーリーは、テムプルムに由来。テムプルム=天上・地上の切り取られた領域、方位


観照的生(ヴィータ・コンテムプラーティヴァ)と、行動的生(ヴィータ・アークティヴァ)は、違う。

世俗的生、行動的生

瞑想的生、修道院的生


理論とは、現実的なものの観察。

ベトラハトゥング=コンテムプラーティオーのドイツ語訳、宗教的な瞑想と沈思。ヴィータ・コンテムプラーティヴァ(観照的生)の領域に属する。


現代科学の「理論」と、「テオーリア」は、本質的に別のもの。


ベトラハトゥング

トラハテンラクターレ(処理する、加工する)

トラハテン=何かを得ようと努めること。何かを確保するため、それを追い求め、捕らえようとすること。

ベトラハトゥングとしての理論は、現実的なものを捕らえようとし、そして確保する加工。≠ 科学は理論としてまさに観想的で、現実的なものを加工せず、純粋に理解しようとする。


純粋な科学は、実用を考えないものである。


でも現代科学は、べトラハテンとして、何かを得ようとする。


現実的のものは、それ自体を表出している(際立たせている)現前するものである。

近代だと、その現前を対象性として存立させる。

科学の側も、理論として現実的なものをことさらに対象性へと挑発する。

現前・対象性←(挑発理論・科学・現実的なもの

現実的なもの=働きをおよぼされたもの、ある設定された諸原因からの予測可能な諸結果=追跡可能かつ予測可能なもの=その対象性において確保される=科学的観察が独自なしかたで捕らえようとする諸対象の領域

近代科学が現実的なものに呼応するさいに遂行する表象の根本特徴は、捕らえようとする表象である。

これが一切の現実的なものをその追跡可能な対象性において確保する。


一切を決定する働きは、現実的なものを用意する加工。

加工は、現実的なものを何らかの対象性へと作り上げる。


現前するもの、たとえば自然、人間、歴史、言語が、現実的なものとしてそれ自体の対象性を表出しているということ。

これとともに、科学が現実的なものを捕らえようとし、それを対象的なものとして確保する理論となること。


理論はそのつど、現実的なものの領野を、対象領域として確保する。


目的とは、態度と行動のために、あらかじめ表象された規定根拠である。

それ自体において、何らかの目的によって規定されつづけるものがあるとしたら、それは純粋な理論である。

純粋な理論は、現前するものの対象性によって、規定される。


現代科学は理論である。

だから、何かを得ようとする観察のあらゆる場合に、それの、何かを得ようと努めるあり方、すなわち捕らえようとしつつ確保する処置というあり方、すなわち方法というものが、決定的に優越する。

算定=現実的なものを捕らえようとしつつ確保しつつ行う手続き

計算=何かを前もって計算に入れること、何かを考慮に入れること、何かを当てにすること(それを期待すること)

現実的なものの対象化は、計算である。


数学が計算なのは、方程式による秩序関係の相殺を期待し、それゆえその根本方程式を考えに入れているから。


現代科学は方法の優位にもとづいているので、対象領域の境界を相互に画し、境界を画された領域の一部を専門としているので、現実的なものの理論は必然的に専門科学となる。

ある対象領域の探究は、その領域に帰属する諸対象のそのつど特別な性格に精通しなければならない。


物体的なものの根本特徴は、不可入性。

不可入性は、元素的な諸対象の運動連関の一種として提示される。

元素的な諸対象それ自体とその連関古典物理学なら幾何学的な質点力学、今日の物理学においては核と場という標題


古典物理学空間を占めている物体のあらゆる運動状態は、つねに同時に、位置からも運動量からも規定可能であり、一義的に予測されうる。

原子物理学運動状態は原理的に、位置からか運動量からか、どちらか一方からしか規定されえない。

古典物理学は、自然とは一義的にそして完全に予測できるものと考える。

原子物理学は、対象的な連関についてはただ統計的な性格をもった確保が許されるにすぎない。

幾何学化していく古典物理学から、核と場との物理学へのこの変化で、変化しないものは、理論としての科学が行う捕えようとする確保に対して、自然があらかじめ用意できていなければならない。

(ただ、最新の原子物理学の局面においては、対象さえもが消え失せる。)


対象性は集立から規定される用象の用象性へと変化する。

主観・客観関係は、そのようにしてはじめてその純粋な関係性格に、すなわち用立て性格に達する。

そのような性格のうちで、主観も客観も、ともに用象として吸収されるのである。

主観・客観関係が、集立からあらかじめ規定された支配に達する。

主観・客観関係は、用立てられるべき用象となる。


理論は、現実的なものを、ひとつの対象領域へと確立する。

しかし、自然はつねにすでにそれ自体から現前している。

対象化のほうは、現前する自然を頼りとしている。

理論は、原子が感性的な知覚に対してそれ自体を表出することを、頼りにしている。

理論はすでに現前している自然を避けて通ることは決してないし、そのような意味で自然を回避することは決してない。


自然は物理学にとっては対象領域にすぎない。

その対象領域の対象性は物理学的な加工によって初めて規定され、ことさらに用意される。

科学的な表象は、自然の本質を包み込むことはない。

対象性に応じた表象と確保とがそのつど自然の本質充実を包み込むことを、対象性そのものが拒むかぎり、自然は不可避的なもの。


世界史学=この科学はその捕えようとする確保を、史学の理論が歴史として手渡す領域において遂行する。

史学=探究する、見えるようにすること。表象のひとつのあり方。歴史の探究。

歴史=さまざまな仕方で準備され、伝えられ(届けられ)、送られるかぎりでの、生ずるもの。

あらゆる史学的なもの、史学のやり方で表象され、確立されるものは、歴史的である。これは、生起する命運にもとづいている。

しかし、歴史は必ずしも史学的であるとは限らない。

自然・人間・歴史・言語は、これらの科学にとってそれらの対象性の内部においてすでに支配している不可避的なものであり続ける。


不可避的なものは、科学の本質において支配している。

諸科学には、これができない。

物理学のあらゆる発言は物理学的に語る。

しかし、物理学それ自体を物理学的実験の対象にすることはできない。

文献学も同じで、言葉と文献との理論としては、この科学を文献学的観察の対象とすることはできない。

数学も、数学的な計算によって、数学自体の本質を見つけることは決してできない。


諸科学には、その理論という手段によって、また理論という手続きによって、いつしか科学としてのそれ自体を眼前に表象することはできない。


目立たない事態=接近不可能な不可避的なもの

目立たない事態を指摘することによって、問うに値する事柄の前に導くある進路へと指図されている。


省察が必要なのは、応答としてである。

応答は、問うに値するものが無尽蔵にあるがゆえの絶え間のない問いの明確さに我を忘れる。

応答はこの無尽蔵のものにもとづいて、ふさわしい瞬間に問いの性格を失い、単純に言うこととなる。