結局、ハイデガー「技術への問い」の続きを読むことにした。
私は本を3冊以上同時に読むことが出来ないので、この本と、もう一つはスペイン語の絵本の翻訳で、計2冊だ。
「技術への問い」という本は「技術への問い」という項目だけ読了しているので、次は「科学と省察」だ。
ハイデガーは基本、内容が面白すぎる。
しかし、読んでいて思うのは、「これって本当のことじゃないんだろうな」という思いが少しだけ掠めている。
そう思う理由のうち一つが、「言葉が、言葉の原初に由来している」という説から離れられていないからだ。
前も言ったが、今の言葉は今に由来している。
少なくとも、私は基本的にはそう思っている。
もしかしたら本当に言葉の原初の由来を引きずっているような言葉があるのかもしれないが。
そして、そう考えるのは一種の哲学的な魅力があって、だからこそ続きが気になり読み進めてしまうのだが。
それでも読書をやめて普段の生活に戻った時に、「本当かよ?」とついつい思ってしまう。
それと。
私は後期ハイデガーの短い文章のものしか読んだことがなく、かの有名な「存在と時間」はWikipediaの内容を読んだ程度にしか知らない。
つまり、「現存在」という言葉の意味ぐらいしか知らないのだ。
しかし、読んでいて思うのは、彼はもしかしたらナチズムに反対していたのではないかということ。
というのも、筒井康隆が「存在と時間」をかなり分かりやすい言葉で書いた本があって、それを立ち読みしていたのだが、これってユダヤ人側に立って書かれているのではないか?ということ。
「我々は常に死と向き合う必要がある」、「我々はいつでも死ぬ可能性がある」とか言っているが、これって被害者側の視点からの警告ではないか?
「存在と時間」が書かれたのは1927年で、ナチスが政権を執ったのは1933年からなので、そのちょっと前に自国の情勢を知って、警告を発しているということではないだろうか?
もちろん、たとえそうだとしても、ハイデガーは難しい言葉を使いこなして、うまくごまかしたんだろうな。
でも、言っていることの本質が、被害者であるユダヤ人側の視点だとすれば、ハイデガーは内心ナチズムに反対していたということになる。
(調べたら、ハイデガーは「ナチスのあり方そのものが、ユダヤ的である」と批判していて、ユダヤ教もナチスも同時に批判しているようだ。)
ハイデガーの後期はナチズムに失望したのだと、どこかに書かれていたのを思い出した。
そして、存在と時間を書いた頃は、ちょうど仏教に目覚め始める時期だったかもしれない。
ハイデガーは「なぜもっと早く仏教に出会わなかったのだろう」と言っている通り、彼の後期の発想は仏教思想を踏襲していると思われる。
つまり、ハイデガーが皆に言いたかったことはこういうこと?
「ユダヤ教徒なんて、やめちまえよ。」
いずれにせよ、あの独裁政権下では、書きたいことも書けなかった部分はあるだろう。