レヴィナス「全体性と無限」第一部B-5章にて。


「言語」のことを「純粋認識」だと言っているのは驚いた。

純粋認識とは、経験的なものを全く混入していない、アプリオリ(先験的)な認識のこと。

つまり、レヴィナスは言語のことを、時間や空間と同じく、「生まれる前から知っていた」と言っているのだ。

“初めに言葉があった。”

これはキリスト教聖書の初めに書かれた文言だ。

ユダヤ教の聖書(タナハ)には書かれていない。

しかし、ユダヤ教徒レヴィナスが、キリスト教の聖書を参考にして信仰していてもおかしくはないだろうし、むしろ自然な流れだと思う。



レヴィナスがこの章で「裸性は無用なもの」と言っているのも、同じようにアダムとイヴの禁断の果実の話から連想されたのではなかろうか。

「裸性とは、自らの究極目的に対してその存在が持っている剰余である。剰余とは、事物の持つ不条理さ・無用さである。」とのこと。

レヴィナスが言うには、裸性は物事の本質ではないのだ。

裸性は、「物事の持つ、役に立たない部分」だと言うのだ。

ここにも、彼の信仰心が現れていて面白い。

もちろん、私の解釈が間違っている理由はどこにもないので、裸性の件は微妙だが、言語の件は彼の信仰心が哲学に介入したとしか考えられない。

というか、自分の書いた哲学書に自分の信仰心が介入しないことって、そもそもあり得るのか?

唯物論者は唯物論という信仰が現れるわけだし、ユダヤ教徒ならユダヤ教の信仰が現れて当然だと思うのだが。



しかもこの言語の件、実際に一理あるかもしれない。

私の知り合いの子どもが胎内記憶を持っていて、胎内にて「神様とどんな人生にするか決めてきた。話した内容は忘れた」と言っているので、人が生まれる前から言語のコミュニケーションはあったのだ。

となると、レヴィナスの「言語は、生まれる前から認識していた」という説はあながち嘘ではなくなる。

いや、あの子どもが嘘をつく理由などどこにもないし、正直過ぎて嫌なくらいの性格なので、あの話が本当である以上、それも本当だ。

ただし、この世の初めが言葉だったかどうかまでは分からないし、そこは違うと思うのだが。