レヴィナス「全体性と無限」を、序章~第一部B章まで読んだ。

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レヴィナス「全体性と無限」を、序章~第一部B章まで精読しました。
そろそろ他の本を読みたいので、ここら辺で中断しようと思います。
私は基本、一冊ずつしか読書出来ない人間なので。

なお、こういう難解な図書はスマホにメモを取りながら読むと、一文一文理解しながら読むことが出来ます。
本文をそのままスマホに書き写すだけでも、やってみると理解できたりします。
この本は途中までしか読んでいないのですが、それでもここには書ききれないほどの内容でした。
なので、分かりやすいものを抜粋してまとめました。

この本の内容を一言で表わすと、「俺は俺、お前はお前」です。
そして、レヴィナスユダヤ人であり、彼のタルムード研究からも分かるように、正統派ユダヤ教徒と思われます。
なので、この本がオカルトチックな哲学書であることに気付かなければ、所々が意味不明となります。
私は最初、そうではないと思いましたが、これに反対できる意見はネット上のどこにもなく、よって、現在の私の頭ではそうとしか考えられません。
ただし、書いてあることが全部本当のことかと言われると、そうでない部分もある気がしますが。

(以下、本の内容のまとめ)
私という人間は、私以外の何者でもない。
「あなた」という単語は、「私」の複数形ではないように。
人は本来、全体性から分離された存在である。

例えば、「歴史的な見方」というものは、時系列という全体性に従っており、本来の人間個人のあり方とは違う。
なぜなら、個人(魂)の時間というものは、自分や周りの変化によって時間が経っているように見えているものだから。(←オカルトチックな論)

そして、顔は、自分の心がそのまま表現されたものである。
デカルトは神の定義を「無限」としたが、その神性は人間一人一人の中にも宿っている。
それは、他人との関わりの中における、社会性のことである。
他人と関わる時、他人の神性を大事にすることで、人間本来の関わり方が出来る。
ただ、人が神を知解できないのは、無限(人の神性)との関係が、人が神を知解できないことを尊重するから。
だからこそ、人は無神論的に生きている。
それでも、人は他者と関わる時、自らの中にいる神性を発揮している。

魂の繁殖性(輪廻転生)は死という点を乗り越えて、原初からの記憶を引き受けている。
(正統派ユダヤ教には、輪廻転生の教えがある。)

言語は、純粋経験である。
(初めに言葉ありき、というキリスト教聖書の内容。純粋経験とは、経験する前から知っていたということ。つまり、言葉は生まれた時から知っているという。)

分離と超越は、存在の骨組みである。
(超越=神性のこと)
そして、言説の中には、この関係を見出せる。