さすがにFacebookにこの記事↓を投稿する勇気はなかった。

私のブログを探し当てた人だけが読める記事になってしまったのが、残念なところ。

 

(Facebook未投稿記事)

 

私にレベルの高い守護霊が憑いているからといって、妬まないで下さい。
稲垣勝巳さんが言うには、レベルの高い守護霊が憑いている人ほど、困難な人生を神に任されているとのことです。
というか、あなたに憑いている守護霊も同様、神によって守護霊に任命されたくらいのレベルの高い魂であることは明白です。
守護霊が生前、地位や名誉の高い人間であったかどうかは、死後には関係なくなります。
そして、私自身、過去の嫌なことについてはなるべく書きたくないのですが、私に守護霊が一人以上憑いているということは、若くして自殺する危険性が高まる人生が設定されていたと推測されます。

 

悪い人間の集団には依存せず、自分だけは孤高で潔白な道を選択し続け、苦しんだ時に根を張るようにして培われた知恵でもって、他者を救うことを喜びとする人生。
悪い人間の集団に自分を売ることは楽かもしれませんが、ある程度まで行くと直感が許しませんので必然的に苦しい道を選択することになります。
そうなると、悪い集団対一個人ということになり、孤独の中で人間不信になりかけますが、そこから這い上がるのは自分の殺意との戦いになります。
ここに書くのは簡単ですが、ここに辿り着くまでには相当キチガイになりかけながら生きて来ました。
本物のオカルトを探しながら、それだけを希望にして生き抜いたことも、何度もあります。
ですが、私の人生において今は凪の状態にいるので、ようやく神の求める知恵が根付いて来たのだと思います。

 

私が構築した、唯物論の否定理論
a:この世の物質は、全て循環物である。(無から有は生まれない)
b:時間の矢がある限り、この世の誕生は、無から有が生まれて出来た。
a≠b(この二つは、矛盾する。)
ビッグバンが本当にあろうがなかろうが、この世の構成素材は神が作った夢か幻だと考えることも可能なのです。

 

自分の殺意を克服する方法は、「正義感」と「残虐性」は切り離して考えること。
相手を同じ目に遭わせてやりたいと思うと、残虐性が芽生えてしまう恐れがある。
頭をクールにして、冷静に法的手段を取ったり、論破したりする知恵を磨くこと。
これは一生モノの知恵となる。
そして、相手を同じ目に遭わせるのは、相手の来世の人生計画を担っている神の役割である。
我々がいずれ誰かの守護霊になるのが目的ならば、守護霊というのは愛の塊なので、そこに向かっていくために善悪の概念は必然的に存在するわけで、唯物主義的な「善悪がないから何をやってもいい」というわけには行かないことが分かる。