「全体性と無限」、第一部B章の3を読んでいる最中。


存在の現出について書かれている。

しかし、これはそのまんま読んでもイメージが掴みにくい。

なので、私の場合は「存在」という言葉に、例え話を挿入する。

それは、「音楽」という存在を例えてみることにした。


(私のスマホのメモより、引用)


存在の自体的なものの現出は、それが暴露されることではない。

自体的な現出は、私たちがそれに対して取り得る如何なる立場にも左右されずに、存在が私たちに自らを語ること、この存在が自らを表出することである。

存在は、対象の可視性に反せず、現出(当の存在をただ予告するだけ)のうちで自分自身を現前させる。

この存在は、かかる現出それ自体を指揮するものとして現前している。

この存在は、それをただ現出させるだけの現出に先立って現前しているのだ。


(引用、終わり)


これを、音楽に例えてみる。

上記にて、「可視性」という語は、可聴性という語になる。

音楽が現出した場合だと、音楽そのものが暴露されるのではなくて、音楽が私たちに語るのであり、この音楽が自らを表出するのである。

この音楽という存在は、現出すること自体をコントロールしながら、目の前に現れる。

(現出とは、実際に現れ出ること。)



いずれにせよ、このレヴィナスという人、もの凄い感性の持ち主です。

こんなの、一般人である私が読んでも理解できません。

もちろん、スマホにメモを取りながら、同じ箇所を何度もじっくり読んでいけば、意味は分かるかもしれません。

しかし、言っていることの意味が分かっても、共感が出来ないのです。

私はまだそのレベルの感性しかありません。