ジャック・デリダ「散種」を読み始めた。

ようやく前の本が読み終わったので、手をつけることに。

前々からこの本にはワクワクが止まらなかった。

もちろん私はオカルトを論理的にも体験的にも肯定するしかなくなってしまった身体なので、もう唯物論者に戻ることは出来ないのだが。

ちなみに、哲学では唯物論者≠オカルト否定派であり、オカルトチックなことを言う唯物論者も多いと感じている。

(立ち読み程度にしか読んだことはないが、)フッサールなんかまさにそれなんじゃないかと?


デリダのプロフィールを見ると、「西洋形而上学におけるロゴス中心主義の脱構築を提唱し、」とある。

私はあまり哲学書を読んでいる人間ではないのだが、確かに私も哲学のロゴス中心主義には前々から疑問を持っていた。

ハイデガーの「技術への問い」でも、単語の語源をとことん漁って真理を探究しようとしたみたいだし、幸田露伴のエッセイですらそうなっている。

しかしデリダは、単語の語源を探ることは、現在使われているその単語の意味とは関係ないという。


神保町の喫茶店で学生が、「結局そこでデリダに吸収されちゃうんだよなぁ」と言っていたのを耳にしたが、それくらい哲学界の常識に風穴を開けたのがデリダなんだろうな。