「全訳マラルメ詩集」加藤美雄訳、読了。

(Facebook投稿記事)
 
「全訳マラルメ詩集」加藤美雄訳、読了。
神保町の田村書店にて購入、税込200円。

この本を読んだ所で、マラルメの詩についての意味を了解できるような頭の中の閃光は発生せず、結局のところ、そのような私の期待していたことは起こらず、単に訳者の恣意的解釈による翻訳と解説の書かれたものという範疇から出ることはありませんでした。
しかし、訳者の恣意性には膨大な資料から導き出された解釈がありました。
ですから、解釈についてはやや的を得ているかもしれません。

訳者によると、マラルメの詩のベースとなっているものは「素白の苦しみ」であり、白い帳面に書く詩が思い浮かばない苦悩がいつも付きまとっていたそうで、それ自体が詩を書く時の基盤になっているとのことでした。
(ちなみに、素白の読み方は「そはく」で良いのかどうか分かりません。)

それに加えて、「扇」という題名の付いたいくつかの詩には、マラルメが関わっていた女性への思いが描かれているとのことです。
それは、詩作のためと思って浮気を容認してくれた妻への感謝だったり、また、彼が片思いに終わったメリという年下の女性への口説き文句だったりが題材となっているようです。

ただ、マラルメの詩について、私が一番それを理解出来たと思えた瞬間は、自分で翻訳したものを読むことでした。
自分の言葉で書かれた訳は、情景が思い浮かびやすいのです。
その境地を知ってしまうと、この翻訳本にもどこかに訳者の恣意性を払拭出来ない部分があって、マラルメ本人の意図とはずれてしまっている部分が多少はあるのではないかという疑問が付きまとうのです。
例えば、訳者の言う通り、素白の苦しみが詩の中に現れていたとしても、全部が全部その解釈ではないのではないかと考えたりするのです。
素白の苦しみはあくまで素材として書かれた言葉であって、決してそれだけではなく、本当はもっと文章そのものの美しさや、頭の中のロマンを求めて書かれているのではないかとも思えるのです。
また、マラルメ唯物論者だったと書かれていますが、それはどうだったかどうかは正直分かりません。
なぜなら、人の信仰心は時と場合によって人生の途中でコロコロ変わるものだったり、また、日常生活では唯物論者であっても詩作の時だけは無意識に何か霊的なものを感じ取っていてそれに本人も気づいていなかった場合もあったり、あるいは、本当は霊的な何かを感じ取ったり信仰したりしていたのだが大っぴらには言わずに唯物論者であることを通した、という可能性もあるのです。
けだし、マラルメ唯物論者だったという訳者の説は、ジャック・デリダマラルメ解釈を全否定するものになるでしょう。
デリダは、マラルメの詩にはノヴァーリスの聖書が隠れていると言っていますから、神秘主義ノヴァーリスの神秘思想に味付けされた聖書が隠れているのだったら、マラルメ自身が唯物論者であったかどうかでさえも謎のままとなります。

さて、結局のところ、マラルメの詩は言葉そのものの美しさを求めたせいで、意味性を失っている部分が大きいのではないかと思うのです。
韻の踏み方はフランス伝統方式を踏襲しているそうですが、それだけでも意味を犠牲にする部分はあると思います。

(引用、p.223「頌と墓」より、無題のソネット。)

われわれが徐々に吐きだすとき
ほかの輪となって消えうせた
煙のいくつかの輪のなかに
縮図となった魂はおよそ

火の明瞭な接吻で
灰が落ちさえすれば
ものしり顔に燃えている
なにかの葉巻を証している

同じく小詩群(ロマンス)の合唱が
お前の唇へかけのぼるとき
もしも現実から始めたいなら
安っぽいのは締めだすべきだ

余りに正確な意味合いは
お前の曖昧な文学を抹殺するからだ

(引用、終わり)

この詩の「お前」が誰なのかは未だに分かっていません。
私は、お前というのはマラルメ自身が鏡に向かって言った言葉のように思えてなりませんが。
ただ、「あまりに正確な意味合いは、お前の曖昧な文学を抹殺するからだ」との文言は、マラルメ自身が詩(小詩群の合唱)に正確な意味合いを持たせるよりも「曖昧な文学」という芸術性を活かすべきだと考えていたからなのではないでしょうか。
また、訳者も言う通り、マラルメが詩を「煙」に例えているのだとしたら、やはり詩作を意味で固めることを避けた比喩なのではないでしょうか。
加えて、デリダマラルメの文学に関しては「そこに意味なんてない」と言っています。
私は結論として、マラルメの詩は曖昧な美しさを出すために、意味の整合性を犠牲にしたものだと考えております。