前にも言ったけど。
私には、デリダの「散種」という本自体が、散種の概念で書かれているという疑惑があって。
要するに、一つの言葉には複数の意味があり、しかもその言葉は、その言葉の由来には由来しないという。
だからこそ、人は皆、色を識別するのが個人個人で違っているみたいに、「散種」は読む人によって全然違った意味に捉えられてしまうのではないかということだ。
つまりは、「散種」を簡単に解説した手引き本みたいなものは皆、その人個人の恣意的解釈で書かれたものではないかと。
そして、恣意性のないオリジナルの「散種」は、デリダの頭の中にしかなくて、それを側から読んでも誰も分からないまま、著者本人が死んでしまい、今に至るのではないかと。
まるで、マラルメの詩じゃないか。
これはもしかしたら解答なのかもしれないが、デリダはマラルメの詩について、「そこに意味なんてない」と言っているようだった。
知らない人のために言うが、この「散種」という本には、マラルメの詩についての哲学が書かれている。
もしかしたら「散種」というこの本には、そこに意味なんてない。