近藤純正「水環境の気象学」、とうとうp.200まで読み終えた。
今は、主に土壌から蒸発した水蒸気量について学んでいる所。
土壌中から地表面までの蒸発量と、地表面から大気への蒸発量は、区分されるとのこと。
土系は、この本の中ではやや簡単な方。
ジャック・デリダ「散種」で言われた、「書物は自然を補完する」を体現している感じ。
大自然っていうのは、こうして分析されることによってその本質が見えて来る。
ただ、マラルメなどの難解な詩の本質は、果たして書物で補完されるものなのかというと、デリダは結局、「そこに意味なんかない」と言ってしまった。
フリージャズ(自然)の本質は、確かに音楽の本質部分が一人歩きしたものだろうけど、それでも理論(書物)では明らかにし切れないかもしれないな。
気象学とフリージャズの差は、理論で明らかに出来るか出来ないかの差かもしれない。
それでも、フリージャズにだって、部分ごとの特徴を小分けすることや、楽器ごとのバランスを分析することや、大まかに全体の流れを読むことなら出来るので、そういう意味では書物的なものに補完されると思う。
私が身体で感じている哲学は、こんな感じ。
というか、このことさえも、自分で自分を整理してみて分かった部分もある。
・難解な詩
・気象学や宇宙学
・フリージャズ
・現代音楽
・謎(古代生物や遺跡など)
これらの共通点は、「曖昧さの中から法則性を見つける喜び」にあって、しかもその法則性は身体で体感したいと常に思っている。
その方向あたりに、私が産まれる前に神と決めて来た人生計画があるような気がしている。
そう、書物で分析出来ちゃう時点で、それは中身が浅いんだ。
たとえ書物で分析出来たとしても、まだ謎が残っているくらいでちょうど良い。