ジャック・デリダ「散種」の 序文を読了。(2回目)

(Facebook投稿記事)

 

ジャック・デリダ「散種」より、「書物外 序文」のみ読了。
この部分のみ、2回目の読了となります。

 

予め言っておきますが、この本はかなり難しいのでお勧めは出来ません。
単に難しいというよりも、哲学書や聖書などの事前知識の必要性や、文言における一種の理不尽な難解さを感じます。
(私は事前知識なしで読みましたが、想像力が鍛えられたかもしれません。)

 

ロートレアモンの「マルドロールの歌」という散文詩に着想を受け、ステファヌ・マラルメの詩におけるテクストの構成を元に、「散種」と名付けた文章構造を見出すというものです。
この序文では、そこに至るまでの経緯が書かれております。
そして、過去にヘーゲルが「序文なんて要らん。せめて序論にしろ」と言っていたのに対し、デリダは「いや、その気持ちは分かるけど、良い序文だって書こうと思えば書けるはずだ」という趣旨から出発したのが、この序文なわけです。

 

本文が「規則」に忠実なのだとしたら。
序文や後書き、補足文などは「雑多なもの」となります。

 

自然とは、その雑多なものです。
そして、人間は自然を博物学的に分類します。
つまり、虫や鳥のことを属や科によって分類します。
その分類のための規則(書物)を用いることによって、初めて自然の本質が見出されるということです。
しかし、その百科全書というものは、索引から本文を引き出して読みます。
索引は、本文ではありません。
しかし、索引を引くための動機として、事前の説明が必要になります。
でも、その説明は本の外部にあるものです。
そして、その方法はあなたが自然を手に取る様子と、自然という客観性に属しています。
でも、先ほど述べた通り、自然の本質はこの百科全書という書物によって完成されるのです。
このことを、「百科全書の円環知」と言います。
「百科全書は、自分を産み、自分自身を享受する。」

 

では、「規則」と「雑多なもの」という概念は、概念上で一体化出来るのでしょうか?
これら概念を一体化しようとすると、矛盾が生じます。
「全体」の中に、規則の概念と雑多なものの概念を入れると、反発するからです。
規則と雑多なものは、全体の中で棲み分けされるしかないのです。
しかし、マラルメのテクストは、この過程の途中にあります。
しかも、マラルメの書物は、この過程の途中で裁断された書物のようなのです。

先ほど述べた通り、書物は自然を補います。
例えば、聖書は自然を補完します。
そして、マラルメのテクストを読むと、一見雑多なんだけれども熟考の末に書かれたものであることが分かります。
その一見雑多なマラルメの文章における規則性が、果たしてあるのかどうか?あったとしたら、それはどんなものなのか?を考察されたのが、この「散種」という概念なのです。
それが、林から一部の木々を取り除き、そこに植えた木が種を散らして新たな芽たちが生える様子に例えております。

 

序文は精液だと述べております。
精液は父の一部です。
そして、本文は子です。
父が子を見守り絶賛するように、序文は本文の内容を見守り絶賛します。
このナルシシズムこそが序文の法であると、デリダは述べています。
そして、父と子の間には、種子的差延(※)があります。
それは、序文と本文の間にも種子的差延があるのと同じことです。

 

差延とは、自分が自分であると思い込んでいるものと、現実の自分との差。

 

マラルメ無神論者でしたが、そこにはキリスト教の聖書や、神秘主義ノヴァーリスの書物と構造的に同じものが見出せます。
ここに、先ほどのマラルメの文章における規則性を見つけようとしたのが、この本の著者デリダです。

 

以上が、この本における序文です。
そして、まだ序文の段階なので、散種(マラルメの規則性)についての詳細は出て来ません。
(もし既に出て来ていたのだとしたら、私の読解力がしょぼくて完全に理解出来なかったせいだと思います。)

 

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