自然というのは不完全なものであって。

書物が自然の不完全さを補って、本質をあらわにさせるのだそうだ。

博物学は、鳥や昆虫を属や科で分類し、それによって鳥や昆虫の本質をあらわにさせる。

と、デリダは言う。

 

何かこの、「自然を統治するために人間が造られた」っていう思想が、とてもキリスト教的なんだわ。

 

そして。

書物=戯れとは、偶然と規則との一体性。

それはつまり、プログラム(規則)とその残余・余剰(偶然)との一体性でもあるが。

この戯れが書物と呼ばれる理由は、この戯れの否定的で無神論的な面の、その最終条項が我々に見える時にそうさせているから。

そして、その一体化という企ては、全て消される。

その過程の途中に、マラルメの書物はある。

これこそが、マラルメの書物のためのプログラム的脚注である、とのこと。