(スマホのメモ)
散種 p.82~
エクリチュールの大胆な超過。(これは即興に身を任せて書かれたものではない。)
そのようなテクストを開くには、テクストの形式上の配列の厳格な必然性と矛盾しない関係にある。
その場合、戯れとは、偶然と規則との、プログラムとその残余・余剰との一体性である。
この戯れが文学や書物と呼ばれるとしても、それは、この同じ企ての否定的で無神論的な面を、その最終条項を露出させることによってのみだ。
自然(存在するものしか存在しないという考え)は、全体をそれとして考えるが、全体に付け加わるようなものを何も考えられなくなる。
しかし、このような絶対知が思考に上ると、そのとき全体は自分よりも大きな「部分」によって動かされることになる。
この注記を、全体性効果という。
こうした条件において、文学は書物から出る。
マラルメの書物は、書物の出である。
マラルメの書物には、聖書の末裔のような、この上なく明白な親子関係の特徴が認められる。
少なくとも、ノヴァーリスの聖書の青写真が認められる。
しかしそれは、肯定された見せかけと芝居がかった演出によって、注記(全体性効果)の不法侵入によって、聖書から出てきたのである。
すなわち、マラルメの書物は帰ることなく永久に聖書を逃れる。
こうした事態のために、およそどんな読解も二重化されざるを得ない。
マラルメ:書物は自然の中に書かれているのだと思います。
自然:全体性における世界
書物:あらゆるエクリチュールを大部に綴(と)じたもの
自然と書物の統一。
この統一が与えられてないならば、ただそれを復元すればよい、ということになる。
論述の円環によって内化され再同化された統一の目的論的プログラムは、序文の隔たりに錯覚の場所と備蓄の時間しか残さないだろう。
この場合、序文は補助言説という様態の中に落ち着くだろう。
ところが、序文はプロトコレール(儀礼的)な塊という姿で、至る所に存在する。
序文は書物よりも大きい。
文学は、実践上、全体の彼方も指し示す。
つまり、補完あるいは代補されなくてはならない部分へと全体を変容させる操作や書き込みをも示す。
代補性は、文学とともに著者の形象もがそこで消滅する。
文学は、全体の欠如を埋めようとするかに見えるが、文学はまた全体の除外(全面的例外)でもある。
つまり、全てを取り除いての除外、全体の内部における自己欠如であると同時に、全てを取り除いてただ独りで存在するもの。
全体の内でと同時にその外で、全く他なるものを(全体とは共通の尺度を持ち得ない他なるものを)標記する部品(破片・戯曲)なのである。
散種の壊乱的な法。
文学は、全体の外には何もないのだから、文学は実存・外立しない。(以上における無。)
全体の除外があるのだから、全体の外があるのだから、文学は実存・外立する。(以下における以上。)
そして文学が、しかもそれだけが実存するのだから、全体は何でもなく、無が全てである。
これらの秩序は、存在と意味の新たな問題圏に場を与える。
全体の彼方は、この体系の内側から全体に虚構運動を印刷する。
こうした彼方は快楽と反復とを、ある複合的な杯に従って律動させる。
散種は、快楽の杯の中で、自らを生産する。
テクスト: 杯の中で否定され、遠ざけられた(カード化された)、我々が欲する快楽
テクストに匹敵する無なし。
快楽が殆ど文学的といってよい本質を持つとしたら、快楽はどこに場を持つのか。
誘惑助成、予備的快楽、文学の形式的契機が満たされるのは、快楽の終わりになってだが、そうだとしても、享受とは誘惑の審級でしか、つまり、他の何ものでもないもの(他なる無)を代補するおまけでしかない。
(快楽の享受とは、誘惑がどのくらいの報酬を得たかでしかない。つまり、他の何物でもないものを、他なる無を、どのくらい乗っ取ったかというおまけでしかない。)
快楽は常に形式的で、識閾的で、ゼロだが終わりなし。
快楽とは、維持されると同時に除去された抑圧。
意識上の欠如は、「その上」でやってくる。
超過の欠場である同が入場し、代補・補完である補償物が入場する。
林分からその一部の木々を取り除き、足元に残る木々がつける種子が、自然と散種され、地面に撒かれるようにする作業。