ジャック・デリダ「散種」、思ったより高い砦だ。
難しすぎ。
途中でヘーゲルやロートレアモンが引用として出てくると、簡単なのでほっとする。
ヘーゲルでほっとするって、どんなレベルだよ。
そもそもこの人、言葉足らずというか発達障害というか。
例えば、「悪循環の拘束」という言葉が出てきても、それが何の悪循環を指しているのかがどこにも出てこず、他の文章から推測しなければならなくなる。
それで、他の文章からすら分からない場合は、他の哲学書から推測しろってことなのだろうか。
とにかく、他人が読むことを前提に書かれていない。
他人の気持ちを察することが出来ない発達障害が根底にあるんだと思ってしまう。
この哲学書は、ヴォイニッチ手稿みたいな一つの芸術作品として鑑賞する程度が良いと思う。
全部の意味を一つずつ捉えていくのは不可能に近いと思う。
もちろん、分かる所は分かるんだけどね。
(スマホメモ、引用)
マルドロールの歌「第六歌」は、実質的作業として自らを提示する。
分析的部分を企てる目的で書かれた。
これら(第六歌の冒頭)は全て、序文の終わりであり、黄昏時に生と死の間で起こる。
そして、今日という日の終わりに立ち昇る。
それは、テーゼの最初の展開となる。
「分析」と「総合」という二つの数学的証明様式の対立を弄ぶために、それらに依拠しつつも、それらの場所をパロディによって逆転させる。
そして、悪循環の拘束とトポスとを、それらと格闘させることによって、再び見出す。
(引用、終わり)
要するに、ロートレアモンは数学が好きだったみたいなので、マルドロールの歌第六歌は、数学のように「分析」と「総合」が根幹部を成しているということだ。
その「分析」と「総合」とを対立させて、パロディを用いてその二つの属する場所を逆転させ、それらと「悪循環の拘束」・「トポス(定石)」をまた対立させつつ絡み合わせ、再び分析と総合を見出させる。
この散文詩はそういう手法を取っているようにデリダには見えているらしい。
でも、どのようにそれを行っているのかは書かれていない。
そして、「パロディを用いて場所を逆転する」という意味は、私にはまだ分からない。
「パロディによって、分析したものを総合し、総合したものを分析し、そういう悪循環をわざと生ませている」とでも言いたいのだろうか。
これ、翻訳した人も全部の意味は分かっていないと思われるし、内容の何割を理解しているのか怪しいもんだ。
日本の哲学科の大学教授だってそうだね。
「この散種という本のこの部分はこういう意味だから、これを元にマルドロールの歌を読んでみよう」という授業が行われているのかどうかが大事だが、聖地フランスならまだしも、日本では行われていないだろう。
こうしてまた、ヨーロッパの文化について行けない日本人の構図が浮かび上がってくるわけだ。
↓この本が出ているなら、まだ日本の哲学界に希望が持てる。
https://conception-of-concepts.com/philosophy/general/azuma-hiroki-ontlogical-postal/