(Facebook投稿記事)
マルセル・プルースト「失われた時を求めて 1巻『スワン家のほうへⅠ』」、読了。
光文社版、高遠弘美訳。
第1巻だけを読んだ感想としては、正直、あまり面白さを感じることは出来ず、今の私にはピンと来ない印象でした。
ただ、この1巻が伏線となってこれから話が面白く展開していくそうなので、時を置いたらまた読み始めてみたい気もあります。
現在、光文社では6巻までの翻訳を出版しており、訳者は2年に1冊くらいのペースで完成させているようです。
原作は全部で13巻あります。
さて、20世紀初頭当時、出版社からは「主人公が眠りにつく前の寝ぼけ眼でうとうとしている時の回想や妄想の描写だけで30ページ以上にも亘る」と批判され、プルーストは最初、出版を断られたそうです。
しかし、この本を読めば分かることですが、畳み掛けるように言うならばこの第1巻の全てが「主人公が寝ぼけ眼でうとうとしていた時の回想話」という回想オチです。
つまり、全てが主人公目線の一人語りだったというわけです。
ネタバレだったら済みません。
ただ、話はここを起点として膨らんでゆくとのことなので、そういう意味では重要な巻となることでしょう。
ちなみに、副題にある「スワン家のほうへ」とは、主人公(名前は不明)が住んでいるコンブレー地方にある実家からの散歩道のことです。
散歩道は主に「スワン家のほう」と「ゲルマント家のほう」の二つがあって、どちらも子供の頃の主人公が将来住みたいと思う場所を固定されるほど美しいと思った、二つの場所なのだそうです。
更に言うと、主人公はスワン家の嬢と、ゲルマント家のゲルマント夫人の、両方に恋心を抱いた経験があります。
(ちなみに、コンブレーというのはこの本に登場する架空の地方です。)
主人公は貴族の出身です。
子供の頃の主人公は、母親がベッドにキスをしに来てくれることを切望し、そのために策を練るなど、可愛らしさと切なさを感じさせる描写も多くあります。
紳士のスワン氏は都会人じみているため、物事を断定口調で言わずに俯瞰的・客観的な意見を言う癖があるそうで、主人公からはスワン氏は自分のない人間だとやや批判的に書かれています。
また、ルグランタンという男性は貴族出身ではないのに貴族に憧れを抱いており、その口調からは時折文学の教養をひけらかすなどしたスノッブな面が強く書かれています。
そして、主人公は教会の「鐘塔」の美しさに対する執着心が強いです。
(引用、p.419~420)
そして、つい先ほど鐘塔を見て感じた喜びがますます大きくなったので、陶酔に包まれた私はもうほかのことを考えることができなかった。そのときである。すでにマルタンヴィルから遠く離れたところで振り向くと、もう一度鐘塔が目に入った。日が沈んだあとだったので、今度は鐘塔は黒々として見えた。ときどき、道を曲がると見えなくなった。それからもう一度姿を現し、ついにはまったく見えなくなった。
(引用、終わり)
なお、この「失われた時を求めて」はパスカル・キニャールが愛読していたこともあり、キニャールの文章はプルーストの影響をかなり受けていることが分かります。
最後に、プルーストによって書かれたこの本にある、その美しい文章の断片をここに載せておきます。
(引用、p.355)
雨の滴は葉っぱのほうが気に入っているらしいし、地面もほとんど乾いたからである。滴たちは、いつまでも葉脈に沿って戯れたり、葉の先にぶら下がって、太陽にきらきら輝きながら、休息をとったりしていると思った矢先、枝の高みから滑り落ちて、私たちの鼻先に当たるのだ。
(引用、p.394)
瓶胴(カラフ)は川の水を一杯に詰めながら同時に自分も水に包まれている。固くなった水とでも言えそうな、透明な側面を持つ「容器」であるとともに、流れる液体の水晶でできているもっと大きな容器に入れられた「中身」よりはるかに魅力的でありながら――その感覚は固体の持つ固さを欠き、手で掴もうとしても掴めない水と、口に入れても美味しくない流動性を欠いたガラスの間で絶えず繰り返される頭韻法(アリテレーション)のなかに逃げ込むばかりだったので――どこか人を苛立たせるところもあった。