フェルドマン派とケージ派

きっと、前衛音楽好きには「モートン・フェルドマン派」と「ジョン・ケージ派」があるんだ。

 

無の境地から自然の音楽を作ったのが、モートン・フェルドマン

これはつまり、フェルドマンが音楽のレトリックそのものの身ぐるみを剥いで、「楽器の一音そのものの価値」に重きを置いた作品に行き着いたから。

「音の価値に従え!」ってことだ。

「音そのものの価値に従って作曲した結果、それを自然と呼ぶんだ」ってことだ。

 

逆に、自然の境地から無の音楽を作ったのが、ジョン・ケージ

「自然の動きに従え!」ってことだ。

「自然の動きに従って作曲した結果、それを音楽と呼ぶんだ」ってことだ。

ケージというイデオロギー原理主義者は、「4分33秒」という、文字通りの無の音楽を作ってしまった。

ピアノの蓋を開けて4分33秒経ったら閉めるだけという、本当に何もしない音楽を作ってしまったことは、「トリビアの泉」でも紹介されたくらい有名な話だ。

そして、観客がざわつき始めると、その雑音も音楽のうちだと言う。

頭にキノコでも生えているのか、何て馬鹿な奴なんだろう!

行き着く先が、自然音に還ったとでも言うのだろうか?

ただ、そこにいた観客は、お金を払って話題性を買ったんだ。

「あの時俺は、ジョン・ケージの4'33"の初演に立ち会ったんだ!」と、周りに話題提供出来るし、それ以外では得られない特殊な経験をしたことになるから。

 

そして、私の好きなフリージャズ奏者たちは、果たしてどっちだろうか?

どっちにも属している気がするし、それがこの対極の中間、答えなのではないだろうか。

Ivo Perelman、Mark Solborg、Evan ParkerJohn Coltrane(晩年)、Mat Maneri、Matthew Shipp…

皆、音楽の中にある音楽性のルールを消し去って、「一音そのものの価値」に気を配って演奏している気もする。

ただ、フリージャズそのものが、ケージの「チャンス・オペレーション」に近いことを行っているような気もする。