レヴィナス「全体性と無限」を読んでいて、早くも気づいたこと。
パスカル・キニャールのエッセイは、「全体性と無限」の概念そのものだ。
キニャールはレヴィナスを愛読し、それをもとにエッセイを書いているそうだが、内容がそのまんまだなと思った。
レヴィナスに忠実に書いているというか、レヴィナスに忠実に生きている。
「全体性と無限」講談社学術文庫版のp.86は、特に注目に値する。
まんまキニャールの文章みたいだ。
これは、第一部のB章にあたる。
(引用 p.86)
誕生に(自然に)含まれる既に成し遂げられたものを、記憶は取り戻し、反転させ、宙吊りにする。繁殖性は、死という点としての瞬間を逃れる。記憶を介して、私は事後的に過去に遡行して自分を根拠づける。起源の絶対的過去の時点では、受け入れる主体を有しておらず、それゆえ宿命としてのしかかってきたものを、こんにち私は引き受ける。記憶を介して私は引き受け、改めて問いただす。記憶は不可能性を実現する。記憶は事後的に過去の受動性を引き受け、過去を統御するのだ。歴史的時間の逆転としての記憶は、内奥性の本質である。死の不安は、足りない時間とまだ残っている時間の曖昧さのうちにある。
(引用、終わり)
「死という点としての瞬間を逃れる」
→歴史的に考えると、人はただ全体のために何かを成し遂げるなどして死んでゆくだけ。それが、歴史の時系列で表わされるため「死という点としての瞬間」と書かれている。しかし、レヴィナスは、歴史(=全体性)として生きてはいけないと言っている。また、繁殖性は子孫が続いていくため、本当の意味での死ではないと言っているが、この場合の繁殖性は繁殖ではなく輪廻転生では?(魂の繁殖性だから)とも思ってしまった。
要約すると、「歴史(全体性)としての時間と、一つの魂としての時間は違う」→「世界から見た自分と、自分の中の記憶(魂)は違う。後者が本質だ」と言っている。
ちなみに、レヴィナスはユダヤ教徒だが、正統派ユダヤ教には輪廻転生説が組み込まれている。
だからキニャールのエッセイでは、輪廻転生をほのめかす話がいくつも出てくるのか。
私は、ユダヤ教に輪廻転生があることを今グーグルで調べて知った。
(引用)
転生(てんせい、てんしょう)とは、肉体が生物学的な死を迎えた後には、非物質的な中核部については違った形態や肉体を得て新しい生活を送るという、哲学的、宗教的な概念。これは新生や生まれ変わりとも呼ばれ、存在を繰り返すというサンサーラ教義の一部をなす[1][2]。 これはインドの宗教、ジャイナ教、仏教、シーク教、ヒンドゥー教の中核教義とされ、一部のヒンドゥー教宗派では転生を信じないが来世は認めている[2][3][4][5]。再生と輪廻転生といった信念は、ピタゴラス、ソクラテス、プラトンなどの古代ギリシャの歴史的人物も持っていた[6]。またスピリティズム、神智学、エッカンカー教、および正統派ユダヤ教、北米ネイティブアメリカンの深遠信念の中にも確認されている[7]。