人間愛を失わないようにすることの大切さ。

桜井識子さんが、「世の中には、幸せなのにいじめをする人がいます。他人の不幸が楽しくてたまらないからです」と言っていた。

そうかもしれないなと一瞬納得した。

しかし、そうか?

私はエネルギーを奪われると、その奪われ先を分析する癖がある。

例えば今日、横浜駅周辺にてこちらを見て馬鹿にしてきたリア充の女の子に、「心を正しくしていればエネルギーなんて宇宙の神から自分の容量分だけ貰えるから、どうぞ持っていけよ」みたいに思った。

なぜなら、「自分から向こうに行きたがっているエネルギーなんて要らん。どうぞ悪い憑き物ごと持っていけよ」みたいに思っていたからだ。

すると、その女の子からは「死ね、クソババア!」という、猛烈にヒステリックで、かつ劣等感に満ちた弱いエネルギーを感じ取った。

 

また、横浜駅周辺にて、JKと目が合った瞬間に馬鹿にされた。

これは、何にも考えないで生きているタイプの、他人の気持ちが分からないいじめっ子だと思った。

これは酷い真理だな、などと思っていた矢先だった。

しかし、注意深くエネルギーの奪われ先を分析しているうちに、それを忘れた頃になって、どうも何かを訴えたいインナーチャイルド的なものがアクセスして来るのを感じた。

そのJKのインナーチャイルド的なものは、「死ね!クソジジイ!」、「クソババアも死ね!」と言っていて、そのエネルギーを感じ取った。

しかも、クソババアの方では、本人がそう思ってしまうことへの罪悪感の悲しみまでセットで来た。

(さっきと違う!)

それを聞いた瞬間から、私にエネルギーが戻って来た。

要は、相手には無意識のうちに訴えたい何かがあるのだ。

いじめに快楽を見出す人は、だいたい「皆、死ね!」って思っている。

 

他人の不幸を悦ぶ度合いは、嫉妬深さに比例する。

これは、臨床実験で認められている。

つまり、脳が自己中仕様になってしまうと、喜びを感じにくくなるのだ。

他人の不幸以外の快を感じにくくなる。

そして、快楽に付き物である禁断症状にて、ちょっとしたことでイライラしやすくなる。

彼らが、自分でも訳の分からない怒りが突然芽生えたりするのは、それは他人の不幸に対する禁断症状だ。

そして、多かれ少なかれ、結婚後は毒親になる。

そして、愛というオカルト現象がなくなると、生物学的に結婚生活が4年で飽きるようになる。

 

愛から離れてしまうことは、もともとの人間の定めにはないことなのだろう。

アインシュタインは、愛こそが世の全ての構成要素だと、娘への手紙に書いた。

 

そもそも、幸せになりたかったら神を信じれば良いだけだ。

信仰するというよりも、実際にいるのだから素直に信じれば良い。

(私には、過去に述べた例の龍神さんの話で、龍神さんがいるんだってことだけはとりあえず特定した。)