トリスタン・ミュライユについて調べていたら、父親のジェラール・ミュライユ(Gérard murail)が詩人であることを発見した。
ミュライユの学生時代におけるオーディション投稿作品である「Comme un oeil suspendu et poli par le songe...(夢によって吊るされ磨かれた目)」という曲のタイトルは、父親の詩から採ったものだそうだ。
しかし、その元ネタの詩は、いくら検索してもネット上には出てこなかった。
また、ミュライユは知人たちと共にアンサンブル・イティネール(Ensemble l’Itinéraire=アンサンブル・リティネレールと読む)を立ち上げたが、そのメンバーの一人にミカエル・レヴィナスという作曲家がいた。
まさかと思いきや、哲学者エマニュエル・レヴィナスの息子だそうだ。
レヴィナスを読むきっかけになったのは、パスカル・キニャールの文学作品に深く関わっているから。
そのパスカル・キニャールはオルガン奏者でもあり、音楽に精通している。(著作「音楽の憎しみ」など)
私は、キニャール→レヴィナス→ミュライユと通ったので、音楽→哲学→音楽へと戻ったことになる。
なぜそんな私事を書いたかというと、私のこの流れは、神や高次霊が私を「フランスの近代・現代芸術」へと誘っている気がしたから。
恐らくだが、この流れは私の人生計画に組み込まれている。
これが私の人生にどう関わってくるのかはまだ分からないが、少なくとも好きなことには没頭した方が良いのだ。
他人と比べて焦る必要もないし、ただ好きな気持ちに誘われて没頭すること。
その幸せを、今、噛みしめている。
ちなみに、「知的リア充」という言葉は、昨日、ツイッターで知った。
レヴィナスについてなら私より詳しい人はネットでも見かけるが、それは私を謙虚にすることに加え、もちろん情報や知見を与えてくれる存在である。
私はまだ、哲学に関しては疎い部類に入るだろう。
私は「全体性と無限」の第一部を読んでいる最中の、まだ決してレヴィナシアンではない、ひよっ子みたいな存在だ。
言っておくが、私が「ミュライユの音楽」と「レヴィナスの本」を同時進行で購入することになったのは、偶然だ。
こういう偶然には、オカルト的な意味がある。