(Facebook投稿記事)
シャルル・ボードレール「パリの憂愁」、読了。
岩波文庫の福永武彦訳が古本屋で120円でした。
本は全般的にそうですが、当たるとこれ程コスパの良いものはないでしょう。
岩波文庫にしては面白かったです。
ボードレールは若い頃、バルザックに憧れていましたが、長編小説を書く才能が備わっていなかったことで、却ってこういった短編集や詩集を後世に残すことが出来たのでした。
彼は後に、短編集作家のエドガー・アラン・ポーにも嵌まって行きますが、それも大きかったのでしょう。
悪の華もそうですが、パリの憂愁もかなり推敲されて作られた密度の濃い内容となっております。
内容については、散文詩という形の短編集であり、一つの話に対して2ページほどを使っています。
「幻覚の話」や「亡霊の話」などが書かれていますが、訳者あとがきにてそう説明されないと一度読んだだけでは真髄が分からなかったりもします。
また、雲の上に神がいたという話など、彼の信仰が随所に表われていたりもします。
ちなみに、ボードレール自身は神智学という形のキリスト教徒であり、本人はそう言っていますが、詩集「悪の華」を司祭に見せた所「今すぐそれを燃やせ!」と言われてしまい、「この詩集はキリスト教への信仰が母体になっていることに気付いて貰えなかった」と言っていました。
なお、以下に有名な「窓」という散文詩を貼り付けておきます。
19世紀後半から20世紀初頭のあらゆる芸術家たちが通った道だと思われます。
(「パリの憂愁」より35章「窓」、全文抜粋)
開かれた窓を外から眺め込む人は、しまった窓を見つめている人ほどに、多くの物を見ているわけでは決してない。蝋燭の光に照らされた窓ほど、深遠で、神秘的で、豊かで、暗鬱で、輝かしい物は他にはない。白日の下に見ることの出来るものは、常に、硝子窓の向う側で起っている事柄ほど、興味をそそりはしない。この暗い、或いはまばゆい穴の中に、生が息づき、生が夢み、生が悶えている。
屋根屋根の波の打寄せる彼方に、私は見る、中年の、既に小皺のある、貧しい婦人が、一度も表へ出ることもなく、終日何ものかの上に、身を屈めているのを。その顔、その衣服、その身のこなし、そのどんな些細な目じるしからでも、私はこの女の物語を、いな寧ろその伝説を、再びつくりあげた。そしてしばしば、私は涙とともにそれを自分に語るのである。
もしそれが哀れな老人だったとすれば、私はその老人に関する伝説をも、やはり容易につくりあげただろう。
そして私は寝に就く、私以外の人たちの中に、私が生きたことに、そして苦しんだことに、満足を覚えながら。
恐らく諸君はこう尋ねるだろう、『一体その伝説というのは確かなんだろうか』と。もしそれが私にとって生きることの助けになり、私が現に存在することを、また如何なる者であるかということを、感じ取る助けになったとすれば、私の外側に存在する現実など、そもそも何ほどのことがあろう。