まんこの匂いから、現代芸術哲学への話。

まんこの匂いについての話。

 

師匠と伊藤文学さんと佐々木さんという、3人のおじいちゃんたちがいる。

文ちゃんと佐々木さんは、「あの匂いがいいんじゃねえか!」と、まんこの匂いが好きだそうだ。

彼らの「まんこの匂いの好き度」は、X軸でいうとプラス10くらいに位置するのだろう。

一方で師匠は、ゲイ寄りのバイセクシャルであるためか、「あそこ舐めるなんて考えられねえよ、あんなチーズ臭い所。○○さん(師匠の元カノ)はいつも綺麗に洗ってくれるんだけど、それでもあれはフェロモンだから、どうしてもまた出てきちゃうんだよ。」と言っている。

彼はX軸でいうと、マイナス15くらいに位置する。

 

そして、私はそのちょうど間くらいに位置するのだが、そんな次元の低い所には位置しない。

X軸上の「好きか嫌いか」の軸上には表わせられない感情を抱く。

なぜなら、あの匂いを思い出すだけで、元カノとの色んなエピソードを思い出すため、少し悲しくなってしまうから。(今はだいぶ楽になったけど。)

別にあの匂いが好きっていうことはないし、どっちかというと匂いそのものは嫌いな部類に入るのだが、そもそもその匂いを嗅げる状況自体に相手への感謝の気持ちや思いやりの気持ちが芽生えるので、そんな単純な考えには至れない何かがある。

(まあ、それでも匂いそのものの基準で言うのなら、私はマイナス1くらいに位置するのだろうが。)

そんなわけで私は、新たに「Y軸」を設けて、そこら辺に位置するものとする。

少し悲しくなるということはY軸上ではマイナス7くらいになるので、(-1,-7)ということか。

(いや、それもまた、嬉しいことを思い出したりしてすぐに変動するため、時間軸tによって変動することも考慮できる。)

 

そんなわけだから、私から見れば「比較的教養の高いおじいちゃんが3人も集まって、その程度かよ」と思ってしまう。

 

で、本題だが。

20世紀初頭以降のシュルレアリスム的な芸術観って、今の私と同じ次元にあるのではないかと思ったんだ。

Y軸の発現。

形而下の性欲ではなく、形而上の愛について哲学するということ。

例えば、人は性的魅力の全くない「物」に対しても、情熱的な恋愛並みの愛情を感じることは出来るのだろうか?みたいな。

形而上の愛についてを、従来の「キリスト教みたいなものへの信仰心」だという説明ではなく、もっと「オカルト的な何か」なのではないだろうか?と哲学すること。


第一次大戦時、麻酔薬が普及していなかった当時、日本軍は催眠によって霊と肉を分離させて、麻酔の代わりにしていた。

それほど、20世紀初頭というのはオカルトの研究がされていたし、むろん霊と肉が別というのは紛れもない事実だ。

(私の場合は、気功ヒーリングやSAM前世療法によって、霊と肉が別であることや、唯物論が間違っていることへの証拠を、実体験として突き止めた。)

つまり、私が20世紀初頭の芸術やその思想について研究しているのは、もちろん直感が導いてくれたのが動機にはなっているが、一種の「最新の科学研究」なのではないかとさえ思える。