ミッシェル・セール「アトラス」の「瓶のモデル」は、マラルメの詩「臀部より出でて、ひと跳びで」を言及したものなのか?

(Facebook投稿記事)

 

ミッシェル・セール「アトラス」(叢書ウニベルシタス)という本のp.88に、「瓶のモデル」という章があります。
このことが、マラルメの詩「臀部より出でて、ひと跳びで」について書かれたものである可能性があると、私は考えております。(ちなみに、この詩はラヴェルが歌曲にしています。)
文学でも学位を取得したセールは、マラルメの詩についても考察したことがあると思えるからです。
もしくは、アトラスよりも時系列的には前である、ペネロペ・ライヴリー「トーマス・ケンプの幽霊」というカーネギー賞を受賞した絵本に着想を得て、ということかもしれません。
まあ、さすがにアラビアンナイトまで遡ることはないでしょうが、ガラス瓶の中に幽霊がいるという発想の始まりがどこだったのか、私にも分からないので、今回はただの個人的な考察ということになります。
ただ、以下にマラルメの詩とセールの文を引用しておきますが、やはり内容がその詩への哲学的考察である匂いがします。

(以下拙訳、マラルメ「臀部より出でて、ひと跳びで」)

脆いガラス製品の膨らみから
弾みながら飛び出て来て
激しい警戒心の花も咲かせずに
気付かれることもなくその頸は折られるの。

私は二つの口から飲まれることはないと確信しているわ
恋人も母親もないのだから、
夢物語と同じことは決してなく、
シルフである私はその冷たい天井へ!

赤裸々な花瓶に飲み物はなく
あるのは尽きることない寡の時代なのに
受け入れられずに瀕しているの。

純粋な口づけなんて、とてもおぞましいわ!
死ぬことを知らせてくれるような
闇の中の一本の薔薇すらないのだから。

(以下引用、セール「瓶のモデル」)

 論理的な主体は、確かに、排中律〔第三項排除〕および矛盾律という二つの原理に従う、しかし、なにゆえに個人の同一性が、論理的同一性と異なってはならないということになるのだろうか。例えば、私自身は確かに同一人〔本人〕であり、私の同一性のなかに同一なものがある、だがしかし同一なものだけしかないというわけではない。それゆえ私自身は同一人〔本人〕と同じものではない。なにゆえに同一人idemと自身ipseとを、selfとsameとを、混同するのだろうか。私は幾何学的な点でもないし、距離空間のなかで標定される場所でもないし、堅固な箱のなかの固い塊でもないし、船に乗った水先案内人でもないし、ものを書き記すための硬い石でもない。私は、むしろ、私がそうではないところのものであり、そして私がそうであるものではない。この古い定理は、私が発明したのではない。それはただ自己欺瞞のみを前提とするわけではない。
 逆にそれは、きわめて日常的な奇蹟を前提とする。つまり霊は、不透明でかつ半透明なガラス瓶の内側にとどまったままでありながら、瓶から出て宇宙に広がってゆく。自我は、多孔質で、混合しており、在と不在とを積み重ね、近くと遠くとを、現実のものと仮想的なものとを、いっしょに結びつけ縫い合わせ、外horsとここlàとを分かちかつ隣り合わせる。いわゆる幻想的な瓶は、ギヨンが彼のナイト・テーブルの上に置いた瓶と似ているどころか、霊の瓶に近いものである、すなわちクライン的な位相論(トポロジー)に近いものである。二つの瓶のうちで、最も合理的なものは人がそう考えるほうの瓶ではない。
 哲学が探究してきたものは、貧相にも、超越性のための sur〔......の上に〕と、実体と主体のための sous〔......の下に〕と、世界と内在的自我のための dans〔......のなかに〕だけにすぎないのだろうか。一般化することが残されているのではないだろうか。伝達と契約の avec〔......といっしょに〕、翻訳の à travers〔......を通して〕、干渉の parmi〔......のなかで〕と entre〔......のあいだで〕、ヘルメスや天使たちが通ってゆく通過の par〔......を通って〕、寄生者の à coté de〔......の脇で〕、離脱の hors de〔......の外に〕......など、あらゆる前置詞や偏倚や屈曲によって前に置かれるすべての時-空的多様体をたどってゆくことが残されているのではないだろうか。
 家を焼き尽くす炎の舞が、われわれにそれらを目の当たりに示そうとしている。