パスカルキニャール「いにしえの光」、まだ途中だけど66ページまで精読した。

難しすぎる。

ゆえに、必然的に「精読」と言いたくなる。

時間論など、同じ個所を5回ぐらい読まないと頭に入っていかない所が、点々とある。

それくらい読んで初めて、すっと場面が思い浮かぶ。

 

そんなわけで。

p.64の一段落を抜粋して、解釈してみた。

 

(原文)

年をとるにつれ、時はどんどん流れる。時が流れるにつれて、時間についての経験が増す。時間についての経験が増すにつれて、その経験がもたらした行為は、齢が色づかせる枝を大空に伸ばしていく。往古がますます溢れ出し、時間刻みで深まっていく。記憶は機会あるごとに眩惑をもたらし、記憶の最前列に現れ出たイメージに響きと輝きを与える。使い古された名前や退屈な習慣にすら、記憶は新たな可能性を与える。忘れたものと思い込んでいた思い出すらも蘇る。年齢よりも古い時間や、実際に体験することのなかった段階ですら、経験された時間をとおして生きられる。

 

(解説)

年をとるにつれ、時は流れる。

時が流れるにつれ、まるで「時が経つのを忘れるぐらいの悦楽」などの経験が増す。(←これは前のページに記述されていることをもとに解釈した。)

そして、そういう経験が増すにつれ、今までの人生で自分がやってきた行為の経験値がどんどん広がっていく。

つまり、往古(かなり昔)の思い出が、どんどん広がっていく。

(歳を取れば経験が蓄積していくので当然。)

記憶はたびたび修正されるので、新しい記憶のイメージは、まるで「良かったもの」になっていくようだ。

それは、使い古された名前や、退屈な習慣ですら、「良かったもの」になったりする。

忘れたと思っていた思い出すらも蘇る。

自分が生まれる前のこと、つまり、自分の母親の卵子だった頃や、胎内にいた時のことですら、今の人生の経験の中に生きている。(←これは、前のページを読むとそのような記述があって、そこから話が続いている。)